「家の記憶と、」
COLUMN No.5

家、徒然と。

 家にまつわる記憶や思い出、住まいや暮らしへの想いなどを、さまざまな人の自由な視点で語らうコラム『家の記憶と、』。 第4回目の語り手は、長崎市中園町にある〈けやき〉の店主・庄司宣夫さんです。けやきはカレーが美味しいと評判の喫茶店であり、庄司さんが長年集めてきた手仕事の工芸品が並ぶギャラリーでもあります。国内外の生活に寄り添う手仕事や民藝にふれ、自らも器づくりを行ってきた庄司さんの、家への想いとは。



家、徒然と。

家のことを書くように橋口さんから頼まれ気安く引き受けたがさて困った。 私は借家住まいである。昔も今も借家を探して移り住んできた。数は覚えていないが長崎に来てからも六回は転居している。今住んでいる家は木造のだだっ広い二階家。下はフローリングのリビングに和室二間、上は六畳の和室二間と小さな洋間。 夫婦二人暮らしの私たちが二階へ行くことはほとんどない。質素な暮らしが理想の二人がこんな大きな家を借りた理由は二つある。一つは母親との同居を考えての事。これは母がこんな暗くて寒い家はいやと家を出てしまい失敗。もう一つの理由で今も住みつづけているのだがそれは私が陶器作りをしているため、重さ3トンはある陶芸窯と作業場をここの庭に据えていることにある。こんなことを許してくれる大家は中々いないだろう。しかも妻は藍染めをしているので大きなカメやバケツをいくつも庭に置き教室の日は10人以上の教室生がリビングと庭を使用するので家は人と車であふれることになる。今のところこの家を移ることは物理的にも不可能ということだ。今まで沢山の家に住んだがアパートには縁がない。たぶん壁の圧迫感が駄目。つまり閉所が苦手なのである。

そんな私でも子供の頃の数年自分の家に住んだことがある。郷里の宮崎の田舎に母が家を建てた。田舎らしい不細工な家で、お人よしの叔父が酔って見知らぬ大工と意気投合その場の勢いで頼んだと云う家である。小学生をその家で住み、中学になってすぐ田舎町とはいえ賑やかな商店街に転居した。母が洋装店を開くためである。以来マイホームと縁がない。郷土愛の薄い私の思い出の中であの不細工な家だけが鮮明に記憶に残っている。夜になると生木の割れる音があちこちで聞こえた。 広い縁側があり正面には霧島連山が視界いっぱいに広がっていた。近所には半島からの引き上げ者が住んでいてインテリが多かったのだろう。対山荘というしゃれた地名を作って勝手に名乗っていた。私は対山荘のこの田舎々した家が好きだった。中でも陽がいっぱいにあたる縁側で、山々を眺めぼんやり過ごした日々のことを今も時々思いだす。

もういまさらマイホームを持つことはないだろう。ただ家について私なりの理想を言えば、小さくて簡素がいい。木造と土壁の家で木の香りと日光が何より。周囲に雑木の林があり海が見える広いベランダ。日本人は昔から自然と共に住み四季の移ろいを味わいながら暮らしてきた民族なのだと思う。

かなわぬ夢である。

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庄司宣夫(けやき窯)
1942年木浦(もっぽ)に生まれる。長崎県庁勤務を経て、1973年「暮らしの工房けやき」を開店。1976年に沖縄に通いはじめ、大嶺実清氏と知り合う。1992年の北窯開業と共に、米司工房の外弟子となる。現在、長崎県西彼杵郡長与町にて、食のうつわを中心に作陶中。

COLUMN No.5
家、徒然と。
2018.1.18