「家の記憶と、」
COLUMN No.4

東古川町のこと

家にまつわる記憶や思い出、住まいや暮らしへの想いなどを、さまざまな人の自由な視点で語らうコラム『家の記憶と、』。 第3回目の語り手は、長崎でアートディレクター・グラフィックデザイナーとして活躍する〈design hehe〉の山崎加代子さん。長崎市東古川町で育った山崎さんの幼少の記憶からは、いきいきとした人々の営み、まちの暮らしの原風景が浮かんでくるようです。


 

東古川町のこと

炭屋(冬場)氷屋(夏場)・焼イモ屋(冬場)かき氷屋(夏場)とパン屋・駄菓子屋・あん製造所・飴屋・お好み焼屋・卵屋・八百屋・肉屋・中華料理屋・たばこ屋・クリーニング屋・風呂屋・材木屋・表具屋・建具屋・電器屋・床屋・ネクタイ屋・テーラー・洗張屋・箱製造所・木製冷蔵庫製造所・呑み屋・音楽教室・絵画教室・長崎刺繍人・歯医者さん・助産婦さん。それに天満宮。

ね、こんな商い聞いただけでも心がザワザワしてきませんか。生活の賑わいが浮かんできませんか。

昭和30〜40年代初めの私が生まれ育った東古川町には、こんなにさまざまなお店がありました。文字通りお互い隣同士でお店や家を支え合って建っていました。すぐ近くには中通りも浜んまちもあったのですが、この東古川町の中だけでも日々の生活を営むには十分こと足りていました。昭和ど真ん中ムンムンですね笑

よく玄関で日向ぼっこ。既製服は高かったので子どもたちの服は母が作っていた。どこかへお出かけスタンバイ。
よく玄関で日向ぼっこ。既製服は高かったので子どもたちの服は母が作っていた。どこかへお出かけスタンバイ。

毎朝、東洋軒のパン屋さんが焼きたてのパンを積んで手引き車で売りに来てくれ、おとなも子どもも並んで好きなパンを買うのが楽しみでした。我が家は大家族だったので、母も祖母もお手軽なパンで助かっていたようです。私は特にサラダパンが好きで、袋にくっついてたマヨネーズも指スプーンでしっかり舐めていました。

外で遊んでいる子どもたちの様子は、格子戸を通してその気配を感じるので、「晩ごはんよ〜帰ってこんね」とのおとなの声で、しぶしぶ自宅に帰って行ったものです。ゲームもない時代で家の中は狭かったし、小さな子どもたちにとっては、この町内の通りがちょうどいいサイズの毎日の遊び場だったのでしょう。

私はよく自宅の前の道いっぱいに、蝋石(ろうせき)で絵を描いていました。大きなキャンバスにいくらでも描き放題のぜいたく三昧。まだ車も多くなく、みんなそれぞれにゴム跳びやケンパタ、バドミントン、フラフープ、缶蹴り、自転車の練習をしていて、暗くなるまで子どもたちの声が響いていました。

私の家も典型的な長崎の町家造りで、うなぎの寝床みたいに奥に長いのです。奥の家とは、シュウジ(通り庭)で行き来していました。ちょっと暗くて狭いその通路は子どもにとっても格好の隠れ場所だったけど、真っ暗な夜のシュウジを通るのは怖くて怖くて。

家族が住んでいた家のシュウジ[左]や格子戸[右]は現在もまだ残っている。弟は掃除を済ませないと遊びに行けない。[中]
家族が住んでいた家のシュウジ[左]や格子戸[右]は現在もまだ残っている。弟は掃除を済ませないと遊びに行けない。[中]

昨年、父が弟子入りしていた響写真館の本をデザインするにあたり、我が家のおびただしい数の昔の写真を探していました。見つからないアルバムもあり、ここに掲載しているのは我が家だけの写真ですが近所の写真もかなりあったように思います。小さい頃の写真は白黒ですが、不思議とその時の情景は鮮明なカラーで憶えているんですね。

格子戸に雨が打ちつけ滴る音と湿った木の匂いも。2階の涼み台から、通りを隔てた前の家の友だちや親たちとのおしゃべりも。夏休みは毎朝、子どもたちが家の前に打ち水をするのが仕事です。日が当たり道が乾く頃の、なんともいえない生温かい蒸気の匂いが好きでした。

寒くない季節はスリガラスの戸を開けて家に風を通していたので、格子戸の間から行き交う人たちが見え、冬は部屋の真ん中に鎮座しているダルマストーブを焚き、その上にはカレーやぜんざいの鍋。匂いを嗅ぎながら、ストーブのまわりに集まった近所の子どもたちもいっしょに出来上がりの味を待っている。幼心にも和やかで華やいだ時間でした。

私のデザインのルーツは、そんな町に生まれ育った記憶かもしれません。

今は懐かしくもちょっとキュンとする大切な思い出のひとコマです。


山崎加代子

1949年生まれ。長崎市在住。地元の広告代理店を経て2014年よりウェブデザイナーの甥と「design hehe」を開設。アートディレクター・グラフィックデザイナー。

COLUMN No.4
東古川町のこと
2017.4.21