家にまつわる記憶や思い出、住まいや暮らしへの想いなどを、さまざまな人の自由な視点で語らうコラム『家の記憶と、』。 第1回目は、HAG環境デザイン・橋口剛が、「長崎のヴォーリズ その精神性と記憶の継承」と題し、書籍 「ナガサキリンネ 1(2012年刊)」へ寄せた文章より。明治から昭和にかけ、日本各地で多くの西洋建築を手がけたヴォーリズを通し、建築への想いを語ります。
長崎の洋風建築
幕末以降、長崎には数多くの洋館が建てられました。特に明治時代には大浦の外人居留地を中心に多くの洋館が立ち並び、文字通り異国情緒長崎の原風景が見られました。ですが,一口に洋館といっても、実はさまざまな様式がみられます。例えば、グラバー邸はその多くの部分を日本の大工の技術で建てられた和洋折衷の建築とされています。南山手・東山手界隈に建てられていた洋館のほとんどが、この様式で造られており、この一風変わった建築を文字通り洋風建築と呼んでいるようです。この界隈では、明治から昭和初期までの間に100棟以上の洋風建築が建てられましたが、建物の老朽化や時代の変遷に伴い、数多くの洋風建築が姿を消し、現在では、数十棟が残されるのみとなりました。こうした現在する洋風建築の中でも、大浦天主堂やグラバー園とならび取り分け優美で特質すべき建物があります。大正から昭和のはじめにかけて建てられた活水学院です。
W.M.ヴォーリズ
活水学院の現在の校舎は一粒社ヴォーリズ設計事務所により設計されました。その創設者W.M.ヴォーリズは、明治時代から昭和初期にかけて日本に数多くの建物を手がけた洋風建築の草分けと言われています。設計を手がけた数は1000棟を超え、その種類も教会建築をはじめ学校や、デパート、病院など多岐にわたるものでした。ヴォーリズによる学校建築の代表的作品とされ、ほとんどが戦前に立てられており、今なお現存するものは100棟ほどですが、そのうち30棟あまりが、文化財として保存されており、今なお、地域の人々に愛され続けています。
ヴォーリズの精神性
ヴォーリズは、キリスト教の精神に基づき、建物を人間の健康を増すための道具と考えていたことが伝えられています。 建築家の作為や豪奢な装飾からは一線を引き、慎ましやかで、均整のとれた美しい建物をつくることを信条としていました。
「建物の品格は人格のごとくその外装よりもその内容にある」
とヴォーリズ自身が述べている通り、その建築からは、簡素でありながらも豊かさと品性が感じられます。当時としては当たり前の材料や工法を用いながら、均整と洗練とが建物全体のフォルムから細部のディテールにいたるまで貫かれています。その首尾一貫した姿勢は、しかし、決して堅苦しく、押し付けがましいものではありません。聖書の言葉の中に「汝の隣人を愛せよ」という一説がありますが、ヴォーリズの建物に貫かれた精神性は、あくまで建物を使う人の立場に立った徹底したヒューマニズムにあると思わされます。
受け継がれる美さ
そんなヴォーリズの痕跡はここ長崎でもみられます。活水学院は、その優美な姿を今にとどめ、ヴォーリズ建築の中でも傑作の一つに数えられています。
長崎港を見下ろす東山手の丘に建てられたその学園は、大正13年完成の第一期工事として大チャペルを含む本館工事を、ヴォーリズ建築事務所出身で上海に設計事務を開設していたヴォーゲルとの共作で、昭和8年完成の小チャペルを含む第二期工事はヴォーリズ設計事務所により単独で行われました。
中庭から校舎を望むと、中央にそびえる塔屋を中心に、その両翼に校舎が配置された鳥が翼を拡げたような優美な姿がみられます。薄紅色の屋根とバランスよく配置された縦長の窓は明るく華やかで、女子大学にふさわしい愛らしさも感じられる外観です。
その八角形の搭屋中央の入り口ホールは広さはありませんが、天井が高く、柔らかな中にも凛とした学園の雰囲気が感じられました。その奥に入ると長い廊下が左右に伸び、その背後には階段があります。その手摺は彫塑的でありながら、80年あまり人の手により磨かれてその純度を高められ、トーンを押さえた緩やかな階段は、上階へ誘うかのように柔らかな光で満たされています。その光に誘われて3階へ向かうと、古い木の硝子戸から金色の暖かな光が漏れています。期待感を膨らませ、その扉を開けると、珀色の光に満たされた木造の小チャペルへと誘われます。目と体はしばらく、その光の方向へ吸い取られ、時間が止まってしまったかのようです。立ち止まってその辺りをよく見渡すと、琥珀色の窓からの光が、白壁やその周りの漆黒の柱や長椅子を照らしているところでした。光はあたかも自らの意思によって、永遠にそこにとどまるかのように、静かにそしてやさしくその場にあるすべてのものを包み込んでいました。
礼拝堂はその白い天井を漆黒の重厚な木造トラスによって力強くしっかりと支えられています。手斧によって豊かな表情の柱や梁、ふっくらとした曲線によって描かれた正面聖壇のアーチ、一つ一つデザインされた灯篭や金具、決して豪奢ではない、それら一つ一つのディテールは、しかしながら、丹精にそして丁寧に作りこまれています。この小チャペルが完成してから80年あまりが過ぎていますが、少しづつ手は加えられながらも、ほぼ、創建当時のままで、今日まで受け継がれてきています。80年前からその時代時代に生きた生徒たちが、礼拝を捧げる姿は、今日まで変わらず続けられています。ヴォーリズは、「建物の成功とは洗練された美意識と、美の観念を啓発すること」と後に語っています。ヴォーリズが残したこの建物からは、人と時代は代わったとしても、このチャペルを通して与えられた、統一した美意識が、現在も生き続け、記憶の奥底に咲き続けているのだと思わされます。
教会建築
新大工町にある長崎バプテスト教会をはじめて訪れたのは今から10年ぐらい前になります。川沿いにある新しい赤レンガの4階建ての建物とは対照的に、その奥にある平屋建ての古い礼拝堂は、簡素でこじんまりとした建物でした。クリスマスの練習に集まったゴスペルグループの練習は、活気に満ち、教会のイメージである荘厳さというよりは、親しみと温かみの感じる空間でした。古い木造の梁は洋風のトラス組で、日本では祈りのときに手を合わせたような形から合掌造りとよばれる構造で、木の温もりと趣があり、漆喰の壁は、窓から差しこむ暖かな光をやさしく反射して、暖かな空気を作りだしていました。私の通った小学校は、今は無き古い木造校舎でしたが、きおくのどこか、子供の頃に愛着をもって親しんだその校舎と重なる佇まいが印象に残りました。この教会を設計したのも一粒社ヴォーリズ設計事務所でした。
この礼拝堂は約60年の間、大切に使われてきましたが、数十年に及ぶシロアリの発生によって、柱梁はダメージを受け、桁が落ちるなどの深刻な被害を受けています。現在では、仮設の梁によってかろうじて構造を支えている状態で、とても修繕というレベルでは建物の安全性を確保できない状況にあります。それと合わせて、教会が今後、成長していくために、手狭になってきた礼拝堂の拡張が必要となり、礼拝堂の増築計画も検討することになりました。これまで、8年余りの間さまざまな議論が進められており、設計を担当することになった私達が、大詰めとなった実施設計作業を進めているところです。ヴォーリズ建築の精神と記憶の継承を一つの柱として、現礼拝堂の平面計画及び現建物の特徴である、木造トラスによる合掌造りの構造を受け継ぎつつ、増築を図るプランを検討中です。
ヴォーリズは述べています。
「もしもこの建築が真に成功したとすれば、その最も重要なる機能の一つは、永年の間に人々の心の内部に洗練された趣味と共に美の観念を啓発する事でなければならない」
ヴォーリズの時代から時は流れ、私達を取り巻く社会もまた、大きく変化しました。しかし、私達が人間である限り、決して変わらない、変えてはいけないものがあるように思います。ヴォーリズの建築は、その永遠に変わらないものについて、私達に問いかけているように思えるのです。
M.W.ヴォーリズ(1880~1964)
もともと建築家を志す学生であったヴォーリズは、米コロラド大学在学中にキリスト教宣教への夢を抱き、1905年に来日。琵琶湖のほとりの近江八幡を拠点として宣教活動のかたわら設計事務所を開設します。その後、東京の明治学院大学礼拝堂や大阪の大丸心斎橋百貨店、神戸女学院など、1000を超える建物を日本全国に設計しました。キリスト教精神に基づき、近江八幡を世界の中心ととらえた「近江ミッション」というビジョンを作成し、建築設計のみならず、学校、病院、福祉施設事業、そしてメンソレータムで有名な製薬会社の経営など幅広く行いました。
お薦め図書
ヴォーリズさんのウサギとカメ (山崎富美子著,上ヶ原文庫,2008)
滋賀県にある豊郷小学校の設計に際して、その資金を寄贈した大富豪が小学校時代に童話「ウサギとカメ」のカメとあだ名をつけられるほど、のろまだったという話を聞いたヴォーリズは、その小学校の階段の手摺にウサギとカメの小像を設けたといわれています。子供たちにユーモアを通じて、一歩一歩努力することの大切さを伝えたかったためといわれています。
参考図書
W.M.ヴォーリズ著,失敗者の自叙伝,近江兄弟社,1970.
山形政昭著,恵みの居場所をつくる ヴォーリズ建築の100年,創元社,2008.
岩原侑著,青い目の近江商人,文芸社,1997.
山形政昭著,ヴォーリズの西洋館,淡交社,2002.